母校にいってきました
たったったったっ、走る足。
ぴーろろぴーろろ、奏でる音。
わいわいがやがや、元気な声。
青空が綺麗な木曜の午後、わたしは母校の門をくぐった。
新しい建物や、顔の知らない先生、聞きなれないクラスの名前。
わたしが高校を卒業して、もう4年が経つ。
あの頃のわたしは、自信に満ち溢れた「なんでもできる子」だった。
「卒業生として、在校生の前で話してくれませんか?」
一通のメールが来たのは、春服をクローゼットの奥に仕舞い始めた頃だったっけ。
わたしが通う同志社大学への進路を考えている1〜3年生を目の前に、大学生活の紹介を含めた、プレゼンをしてほしいというものだった。
定刻になると、パイプオルガンの音が講堂を包み込む。
優しくて、滑らかな音の重なり。
立ち上がって、賛美歌を歌う。
何もみなくても歌えるくらい、しみついている236番。
聖書の言葉を聞いて、お祈りをする。
後奏を聴きながら、深く深呼吸する癖も、ほら、変わらない。
履きなれないスリッパで前の席に座りながら、わたしは数年前に引き戻された。
数年前も、こんな場があった。
制服を身にまとったわたしが講堂で聞いた先輩の話は、こんなことやってますとか、こんな一日過ごしてますとか、高校生の自分には想像できないものばかりで。
大学生ってなんてキラキラしてるんだろう。楽しそうで、かっこよくて、生き生きしてるように見えた。
高校生のわたしは、やりたいことを見つけて、それが実現するところを目指して、自分の力で勝ち取った。
勝ち取るために、めちゃくちゃ頑張った。
誰よりも行きたい想いがあって、誰よりも行けるだけの努力をして、誰よりも行ける確証がつかめるまで、突っ走った。
大学に入ってみると、待っていたのは、キラキラと同じくらいドロドロした現実。
自分より出来る奴ってこんなにいるの?
努力じゃ追いつけないところってあるんだ。
あれ、わたしって何に自信持ってたんだっけ?
みるみるうちに、しぼんでいくわたしがいた。
世界を広げたくて飛び込んだ場所で、圧倒され、どんどん小さくなっていった。
でも、そんな中で、ど真剣にぶつかってくれる仲間ができたり、家族のことまで相談できる友達ができたり、初めて「尊敬」できる大人に出会えたりもした。
どこに進んでいいかわからないけど、がむしゃらにやってみれば、何かがつかめることや、ちょっとずつの前進が自分をちょっとずつ大きくさせてくれることにも気づいた。
自分を表現すればするほど、嫌われるけど、好かれることにも気づいた。
想像以上に大学生活は、泥くさくて、地味で、しんどくて、
でも、想像以上に、楽しくて、嬉しくて、幸せで、心が揺さぶられて、
自分が自分らしくなることに磨きをかけられる場所だった。
卒業生として、前に立つと決めた時、わたしはわたしに約束した。
キラキラだけの自分は、捨ててやろう。泥臭さも平凡さも、見せるんだ。
「学生団体を立ち上げました」「50人集めて合宿型のイベントやって」「ファシグラの主催してて」「SNSで発信してると街で声かけてもらうこともあって」
おきまりのセリフは、一つも出さなかった。
大学生活は、登山みたいなものだと思うんです。
好きなものをリュックに詰めて、進む道を選んで、時には道ゆく人に声をかけて、頂上を目指すことができるから。
入念に準備をして山登ってもいいし、ケータイだけ持って飛び出してもいい。
平坦な道をゆっくり進んでもいいし、急斜面にチャレンジしてもいい。
たくさんの人と友達になってもいいし、大切な誰かを見つけるのもいい。
大事なのは、どんな風に山を登って、どんな景色を見たいのか、想像し創造すること。
自分らしく、最高に楽しんで、山を登っていって下さい。
きっと、最高の景色が待ってます。
大学の入学式から講演した日までを計算すると、1171日も月日が流れていた。
1000を超える月日の中で、わたしは、どこまで大きくなれたのだろう。
何かできるようになったとか、これを成功させたとか、そんなことを並べてた高校生のわたしは、
そんなものがなくても自分らしさだけで勝負できるくらいの強さと、でも泥臭いんですよって言える柔らかさを少しもてた大学生のわたしに、少し背伸び出来た気がした。
探しなさい、そうすれば見つかる。
求めなさい、そうすれば与えられる。
門をたたきなさい、そうすれば開かれる。
何百回を唱えた聖書の言葉。
4年ぶりに母校で過ごした祈りの時間のなかで、わたしはぎゅっと噛み締めた。